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History of TED
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| early 1970`s サーフィンブームの兆し |
| 1970年初頭になると全国的にも徐々にサーフィンが浸透しはじめてきた、ただまだまだ文化的に見てもカリフォルニアやハワイのサーフィンカルチャーにはほど遠くそれに追いつくために再三渡米しその当時の最先端のプロダクツを持って帰ってきては販売、オリジナル商品を開発していたりしていた。ものすごい時間と労力を費やすことになるのだが、プロダクティブな仕事で僕は満足していた。 |
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1970年カリフォルニアマリブにて
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キャンパスバイケートンの創業者ナンシーケートンと日本における独占販売権など契約したのもこの時期だったと思う。
この頃になると、どこにもない商品を求め現在のサーフショップの原型となる今で言えばバイヤーのような人達がTEDに商品を買い求めにくるようになりそれを商材にして自分たちでサーフィンビジネスを始めるようになっていった。 ここではストーリを省くことになるが、今でいうメジャーサーフショップのオーナーが車でのりつけ連れてきたお客さんに販売させあとで伝票をおこす、今思えば究極の無店舗販売、古き良き時代といえばそうなんだろう、が...それだけ当時のTEDが進んでいたことになる。またTEDの中でも世代交代というか新しい人材が入ってくるようになる、後藤保(サンセットタウン)は当時営業として、小野功(サンサーフボード)はシェイパーとして当時のTEDに深く関わってくれていた。そして湘南組は続々と独立しそれぞれのブランドを立ち上げ活躍するようになっていく。 |
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16mmサーフィン映画の撮影風景
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| 自分でも思い入れが深かった日本で最初の16mmのサーフィンフィルム『サーフィンライフ』の製作をスタートしたのもこの年だった。カリフォルニアに年に何回ものペースで行きフィルムを撮るかわらスケートボードの日本での普及も同時に行い爆発的にスケートボードが売れていった。思い出ではカリフォルニアで行われていたStoneStepsでのサーフィン大会、出場者は大ジョッキになみなみとつがれたビールを飲み干してからヒートに出るというもので、決勝となればみんなベロベロで今では絶対考えられないコンテストだがこんなコンテストが古きよきカリフォルニアを物語っているのかもしれない。 |
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1970年初頭のショートボード
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| 時代は完全にロングボードからショートボードの時代に、当時カリフォルニアであったダノタカヤマがもう自分たちの時代はおわったと嘆いていたのを覚えている、この当時のサーフィンは本当に日進月歩で移り変わっていったのだ。
1972年に当時のカリフォルニアチャンピオン、マイクパーパスを日本に招き、テストライダーとして全国的にプロモーションを行った。 ビデオもきちんとした雑誌もない時代に海外のプロ選手のライディングを見るという機会がないなか、このプロモーションは大成功に終わりこれを機に日本にも海外のサーファーが徐々に訪れるようになっていった。 そして新島でマイクパーパースインビテーショナルサーフィン大会を開催をしたのもこの時期だった。海外のサーファーとの交流も盛んになり、情報がどんどん入ってくるようになったのもこの時期だった。
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1971年グレッグハグリン(Fantasea)と
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| ちょうどこの時期になるとビジネスの拠点をまだ未開の土地であった千葉、太東に移し始めていた。何もない土地に西部開拓時代のカウボーイを自分にてらしあわせていたのかもしれない。そして次の時代をになう人材がおとずれるようになる、シークエンスサーフボードの蛸操、クオーターサーフボードの黒木保、そしてタジマクラフトの田嶋がその代表で今では日本を代表するサーフボードメーカーになっている、また今ではサーフィン業界から去ってしまったがこの当時ショートボードの原型を作り上げた飯高テルキ(ファンタスティックマシーン)などもTEDブランドの象徴だった。その当時若い人材が入っては去っていくというこれは今でも変わらない事かもしれないが、独立していった人間が成功をしていったというのは今でも自分の誇りである。 |
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コンテストでは岡野兄弟がチームライダーとして加わり、全日本サーフィン選手権で優勝。
1971年には部原で全日本の予選が行われたりとコンテストが国内でも盛んにおこなわれるようになっていった。
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1971年部原
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1971年部原、東京支部左)桜井ヨッちゃん
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| 1972年ハワイ、ハレイワで行われた日米交流サーフィン大会に大野薫らを引き連れて参戦、マイケルホー、バジーカーボックスらと対戦し活躍した。 |
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1972ハワイ、ハレイワ日米サーフィン大会、左から岡野兄弟、マイケルホー、大野薫、バジーカーボックス
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1971年太東ショップ(現釣り侍)
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| 海外からも多くのワーカーが工場に訪れて技術交換などを積極的に行うようになっていた、当時ハワイでもまだマイナーだった島マウイ島から来た若者ルイ.マーチンがシェイプと同時にシルクスクリーンのプリント技術を学び帰り、MauiTropixを立ち上げた。 このブランドが数年前からロコの中で脚光を浴び今では成功してハレアカラの中腹Kulaで悠々自適にくらしているサクセスストーリを聞きうれしく思う。
1973年に全ての業務を夷隅郡岬町(現いすみ市)に移転、そして映画サーフィンライフが完成、余談だが予算もぎりぎりのなかでの製作で完成まじかになったときバックラウンドミュージックが必要になりその時日大時代の後輩だったマイク(マイク真木)にミュージックを作ってもらえる事になりこのフィルムに花を添えてくれたのは本当に今でも感謝している、そんなわけで彼とも今でももちろん交流があり息子同士が海の仲間というのもまた面白い。このサーフィンライフを全国的に上映するために当時サポートしていたレディスチャンピオン、リンボイヤーとプロモーションに歩く。
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1973年太東ショップ
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1973年太東ショップ店内
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| 第一サーフィンブーム到来 |
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1970年中頃になると第一次サーフィンブームが到来、当時1977年に創刊された雑誌POPEYEやメンズクラブで積極的にサーフィンを取り上げさせコラムなどを担当、サーフィンカルチャー、サーフィンブームの火付け役となった。
サーフィンの大流行により東京中心に丘サーファーなるものが誕生、六本木あたりには夜な夜な出没するサーファーらしき若者が急増しキャリアーにのっているサーフボードはボルト付けされていたり。ディスコなどでもサーファーが幅を利かせていたがそれが社会問題を引き起こすようになり、サーファー禁止のディスコも。
よりサーフィンがビジネスとして確立されるようになり、競争もより激化するような時代に。
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1976年左から飯高テルキ、TED、マイクパーパス
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| TEDのビジネスでは僕自身も国内だけでなく、ハワイ、カリフォルニアに渡りサーフィン、スケートボード、サーフファッションを肌で感じこれだと思う物(Tシャツ、ウェットスーツ、アクセサリー等)を買い付けをしていた。 |
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1976年マイクパーパスat太東
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1977年カリフォルニア
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| 岬町のショップはその中だけまさしくカリフォルニアのサーフショップさながらで当時のサーファー達の間ではランドマーク的な存在になていた。輸入した商品を全国のスポーツショップへ卸し、TEDブランドが全国的に有名になり日々追われる毎日だった。 |
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1976年ショップ、今みてもヨダレもののボードがずらりと
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1976年ショップ
マイクパーパス、TED、飯高、蛸、田嶋、黒木
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| 1979年JSOスーパーサーフィンをゴッデスの鈴木正氏、ダックス高橋太郎氏、ジャックの星氏、タニーサーフ大谷氏らと夷隅サーフポイントで開催、マークリチャーズ、トムキャロル、レナサン、リンボイヤーなど名だたる海外のトップサーファーを招いた世界大会で、これが機に日本のサーフィンが世界の仲間入りを果たした。 |
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1979年JSOスーパーサーフィン
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1979年レディスチャンピオン、リンボイヤー
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1979年テトラ投入前の夷隅
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1970年代の後半になるとサーフィンはライフスタイルを重視したものからより競技趣向へ移り変わるようになりサーフボードの技術革新が進み近代サーフィンの礎が現れはじめるようになっていった。また多くの従業員が独立し自分のブランドを立ち上げるようになり同業者間での競争も激化していくようになり、この10年の間に古き良き日の物はなくなり、よりコンペティティブなサーフィンへ移り変わっていった。
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| そして時代はサーフィンの過度期1980`Sへ |