History 1960〜
TED SURF History
Early 1960`s サーフィンとの出会い
ちょうど日本が高度成長期をむかえ東京オリンピック開催をまじかに控えた1960年初頭、僕(TED阿出川)は日大在学中に1ドル360円、海外に持ち出しできる額が500ドルという今では信じられない為替レートのなか単身カリフォルニアに渡った。
何か目的があったからとそういう理由ではなく、テレビの普及そして初めてのライブ放送でケネディ暗殺をきにアメリカの情報が入り始め、アメリカへの興味がつのりそれが好奇心に変わりどうしてもこの目でアメリカを見てみたく渡米を決意した。
渡米中はカリフォルニアの夜間のハイスクールにかよったり、ガーデナーとしてメキシコ人の日雇い労働者達と一緒に働いたりしていた。 ガーデナー時代のもらっていた3日間分の給料が日本の大卒生の初任給と同じなわけだから、それだけでもやはりアメリカの凄さみたいのを肌で感じ、またこの時すでに人に雇われるのだけはやだなと漠然と思うようになっていた。

1964ロスアンジェルスダウンタウン、ガーデナー仲間と、後ろに見えるのは58年型マーキューリ
1964 カリフォルニア
渡米中、大学の後輩からサーフィンの本を湘南の友人(サーフィンシャークスのタイちゃん)からさがしてくれと手紙を受け取った僕は無論サーフィンなんて見た事もない分けで現地の人間に聞いてみるとサンタモニカに行けばサーフィンをしている人達がいるということで早速海をめざした。ビーチに着いてみると、まさしくそこには映画のなかの一コマのような風景が。 水着を着た若い女性から、若者達がサーフボードをもってビーチを闊歩している。 日本ではまだビーチにいけば海女さんか、漁師しかいない時代である、そして海で遊ぶという文化がまだない時代すでにこの時代のカリフォルニアにはれっきとしたサーフィンカルチャーが存在していたのである。 僕は波に乗って楽しんでいる人達をみていると、もういてもたってもいられなくなり近くの人からボードをレンタルして挑戦してみる事に。が、しかしこれがものすごく難しい、このなかなか出来ないスポーツにいつのまにか完全に虜になりこの日から毎日海に通う事になったのだ。
毎日練習しているうちに、こんな楽しいスポーツがまだ日本には浸透しているどころがまだだれも知らない。 このサーフィンという文化を日本に持って帰れば絶対はやる!! 早速日本の友人に聞いている見ると、まだ日本でサーフィンをしているのはアメリカ人が湘南のごく一部の地域でしているぐらいということ。まずはこのサーフボードの作り方を覚えないといけいないのということで、DeweyWeberやConSurfboardの工場に行き、ノウハウを吸収した。
最初のサーフショップ&ファクトリー誕生
帰国後、すぐに東京神田末広町にサーフボード作りの拠点を置き、サーフボード製造に必要な材料探しからスタートした。TEDサーフボード第一号は飛行機の翼の内部構造からヒントを得てキールをなかに組みその上にベニヤを張ったものだった。
なんといっても、この時代の日本にはサーフボードなるものが周りにない時代、サーフボードの芯材となるフォームは東洋ゴムの工業用芯材をゆずってもらえるようになり、そのフォームをまずサーフボードのアウトラインに切り出しそれを木の板(ストリンガー)に貼付けゴムで固定してくっつけるという方法でなんとかクリアーした。

左から、ドジ井坂、滝、長沼一仁 1968年神田工場
徐々にサーフボードを作っている所が東京にあるらしいという口コミでベトナム戦争で日本に立ち寄っていたアメリカ人の兵隊達が神田に訪れサーフボードの製造方法を教えてくれるようになりより洗練されたボードを作れるようになってきた。 また、この当時アーニー田中がサーフボード製造の指導をしてくれたことにより飛躍的にサーフボードクオリティーが向上したのだった。

1968神田工場 デビットスワンソン(チャックデント
まだこの時代、サーフィンという言葉もなかったのでまずは日本全国TED`Sのサーフボードをもって日本全国をプロモーションで回る事に。 これが今では普通のサーフトリップの先駆けだったのでは?

1968年鎌倉 長沼一仁
このころになると多くの才能にあふれた若者達が神田工場に訪れ、サーフボード製造に携わりライダーとしてボードビルダーとして才能を開花させていった。 この当時TEDに携わっていた代表的なボードビルダーとしてはドジ井坂を筆頭に長沼一仁(ブリューワー)、阿部博(アベシェーピングカンパニー)、出川三千男(ノーブランド)、川南活、坂本登、大島。

1968年鎌倉七里ガ浜 出川.長沼.川南.平井.TED.トミーデュワイアー.アンディーボーグン.エド小川
そしてテストライダーとしては故エド小川(ドロップアウト)、故大野薫、小室正則(マーボロイヤル)など現在のサーフィンインダストリーの基礎を作り上げてきた人材が TEDから生まれていった、その後みんなそれぞれの道を歩んでいったがそれぞれみんな成功していったのは僕もうれしく思う。
この当時は東京に工場件ショップがあり、ボードができてはそのボードをテストしに湘南方面に行っていた。 小さなバンにボード山積み、人間も満載という感じで海に着けば朝から晩までサーフィンざんまい、人も今では考えられないけど波は貸し切り状態でそれはもう楽しい毎日だった。 そしてサーフィンというビジネス自体も今のように全てができあがっているわけでなく、T-シャツにしても当時下着のイメージしかない中、アメリカから素材を輸入し自分たちでデザインをしてそれをシルクスクーリンでプリントをしたり、ワックスを作ったり、トランクスをデザインして家内が夜なべのように裁縫をしたりと、全てがクリエイティブで情熱をもてる仕事だった。
面白い話と言えば、普及させるのにはやっぱりデパートということで、高島屋のフロアーにガラス張りのブースを作らせてもらいそこでシェイプして販売促進をしたりしていた。 今では冗談のような話だが、高島屋で売れたボードを高島屋の包装用紙で包んで鵠沼まで配達した事も。
また1960年後半になると、千葉にもサーフィンをしにくるようになり勝浦マリブなどはまだ有料道路もなく人も少なくどこにいっても貸し切りのビーチでサーフィンする事ができた。

1967 マリブ
太東などはだれもいなく現在の九十九里ドライブインの場所におにぎりを売るおばちゃんがいるだけで、それはそれはいい波をのりまくることができた。
太東のエピソードとしては、その当時DeweyWeberのテストライダーをしていたスティーブの弟と共に太東やその他のサーフポイントを開拓していた時に今はなき太東の漁港の裏に存在していた幻のブレイクが発見された。それが今も語り次がれるスティーブンスポイントだった。
TEDの全盛期へ
この時代になるとサーフコンテストも開かれるようになり、湘南、東京、千葉でサーファーが増え始めて来た。東京でもTEDサーフチームが日本サーフィン連盟東京支部の第一号としてスタートした、よく伊豆の白浜にも合宿に行ったりと現在のサーフトリップのルーツみたいなことをすでにしたいたのである。 そしてこの時のコンテストといえば80%をTEDサーフボードが占めていた。この時代のTEDにはアメリカ文化に憧れる若者達が多くあつまり、そして神田のショップにくればアメリカを感じる事ができた。 それが多くのセンスあふれる人材が集まった理由なのかもしれない。

1969年マリブカリフォルニア
当時若者から絶大な人気を誇っていたVAN JAKETなどからVAN BRANDのボードを受注したりしていた。若者のファッションはメンズクラブなどの影響で IVY 全盛。サーファーのスタイルもコットンパンツにスニーカー。KED’Sなどを輸入し飛ぶように売れた。私自身も日本のアイビーを作った男の一人として石津 謙介、マイク 真木さんらとメンズ クラブに取り上げられた。
又、後に雑誌POPYEのコラムを担当、アメリカ人のライフスタイルを紹介するようになった。
時代はショートボードへ

1969マカハ、ロリーキャロルと
急速にサーフボード開発のスピードが早くなり、海外でロングからショートボードに変わると同時にTEDでもいち早くショートボードを製造しテストライダーの長沼一仁とともにTEDミクロモデルなどを開発しはじめた。












